重藤研究室では、豊富な分子情報を与えてくれる振動分光法(ラマン分光法、赤外分光法)を基軸とする分子分光法と機械学習・多変量解析などのデータ解析法を駆使して、次のような研究テーマに取り組んでいます。
以下では、それらの中から3つの研究内容について簡単に紹介します。
微生物は地球の生態系を支え、私たちの生活・健康にとって欠くことのできない重要な存在です。地球上には数百万から一千万種にも及ぶ微生物が生息していると推定されていますが、その99%以上はどのような種なのか、どのような機能を持っているのかまったく未解明のまま残されています。この「微生物ダークマター」の主な原因は、これまでの微生物学が主に寒天培地で容易に培養できる微生物をターゲットとし、得られた微生物の解析をゲノム解析などの破壊的な方法に頼ってきたことにあります。培養せずに細胞が生きたまま微生物の種と機能を明らかにすることができれば、従来の微生物学を革新し、生態学や医学、農学など様々な分野に大きなインパクトをもたらすと考えられます。
私たちは、個々の細胞を非破壊的に分析可能な顕微ラマン分光法をAI技術(機械学習・深層学習)と融合させることで、微生物の種と機能を高い精度で見分ける方法を開発しています。教師あり機械学習アルゴリズムのRandom Forestや勾配ブースティングを用い、シングルセルラマンスペクトルのわずかな違いに基づいて、バクテリアとアーキア(古細菌)の種を識別することに成功しました[1,2](図1)。カロテノイドと呼ばれる特定の色素の有無や核酸の相対量、そして細胞膜の構造の違いが、微生物種の識別に大きく寄与していることを突き止めました。また、異なる生理状態にある微生物細胞のラマンスペクトルデータを2種類組み合わせて学習させるだけで、微生物種の識別精度の大幅な向上が実現できることも示しました[3]。
[1] N. Kanno et al. iScience, 24, 102975 (2021).
[2] N. Kanno et al. STAR Protoc. 3, 101812 (2022).
[3] N. Oda et al. J. Raman Spectrosc. in press (2025)
生命の最小単位である細胞を分子レベルで明らかにすることは、生命の本質を理解するための大きな鍵となります。従来の生化学的な手法では多数の細胞について平均化された分子情報しか得ることができませんでした。また、タンパク質などの目的とする生体分子を光らせて、その分布や挙動を顕微鏡観察する蛍光法では、蛍光標識した分子しか見ることができないという弱点があります。それらに対して、顕微ラマン分光法を用いると、細胞内の局所のラマンスペクトルを数百ナノメートルの空間分解能で、かつ細胞が生きたままの状態(in vivo)で計測することが可能です。そのラマンスペクトルから得られる分子情報に基づいて、既知と未知とにかかわらず様々な生体分子が関与する生体構造および現象を調べることができます。
私たちはこのラマンイメージングと安定同位体標識や交互最小二乗多変量波形分解(MCR-ALS)を組み合わせて、微生物細胞内への物質の取り込みと代謝過程の追跡[4]や、分子成分の細胞内分布のラベルフリー可視化[5,6]に取り組んでいます。一例として、重水素標識ラマンイメージングにより、糸状菌の菌糸先端部分におけるグルコースの取り込みとタンパク質への代謝が位置特異的に起きる様子を明らかにしました(図2)。また、コヒーレントアンチストークスラマン散乱(CARS)、第二高調波発生(SHG)、和周波発生(SFG)などの複数の非線形光学信号を観測可能なマルチモーダル非線形分光顕微鏡を駆使して、分子の振動情報だけでなく空間的な秩序に関する情報も同時に獲得し、細胞を多面的に観察する研究も進めています。最近、その手法を応用して、希少放線菌がつくる胞子嚢と呼ばれるユニークな構造体で新しい生体膜成分を見出しました[7]。また、菌根菌が共生している植物の根につくる樹枝状体のラマンイメージングにも成功しています。
[4] M. Yasuda, N. Takeshita, S. Shigeto, Sci. Rep. 11, 1279 (2021).
[5] M. Yasuda, N. Takeshita, S. Shigeto, Anal. Chem. 91, 12501 (2019).
[6] R. Sasaki et al. J. Phys. Chem. B 127, 2708 (2023).
[7] K. Usami, T. Tezuka, Y. Ohnishi, S. Shigeto, ACS Omega, 9, 39956 (2024).
レイリー散乱に近い低振動数領域のラマンスペクトルには、一般的なラマンスペクトル(指紋領域と呼ばれる)とは違って、分子間振動や結晶の格子振動(フォノン)に由来するバンドが観測されます。前者は水素結合などの分子間相互作用に関する情報を与え、後者は結晶構造を鋭敏に反映します。また、低振動数領域に観測されるストークスラマン・アンチストークスラマン散乱両方の信号の強度比から、試料中の分子の温度を直接決定することもできます[8]。近年、体積ブラッグ回折格子と呼ばれる特殊な光学素子が開発され、それをノッチフィルターとして用いることで、±10 cm-1を切る極めて低い振動数のラマン散乱光を簡単に測定することが可能となりました。
私たちは低振動数ラマンスペクトルの偏光分解測定を利用して、大気圧下で薄膜中のグレイン(結晶粒)の配向を可視化する手法を開発しました[9,10]。この手法を、次世代太陽電池の光吸収材料として注目を浴びている2次元型(2D)有機無機ハイブリッドペロブスカイトCH3(CH2)3NH3PbI4薄膜に応用し、PbI6八面体からなる無機格子の傾き、すなわちグレインの絶対的な配向を決定しました(図4)。この2Dペロブスカイトのように基板に対して平行に積層した微結晶からなる固体薄膜の配向イメージングにも応用できるものと期待されます。
[8] Y. Yoshikawa, S. Shigeto, Appl. Spectrosc. 74, 1295 (2020).
[9] S. Toda et al. J. Phys. Chem. Lett. 11, 3871 (2020).
[10] S. Toda, E. W.-G. Diau, S. Shigeto, J. Phys. Chem. C 125, 27996 (2021).