関西学院大学理工学部 物理学科 |
中尾成行
近年の金融実務の世界で関心を集めているさまざまな話題の多くの背後に、新しい数理的な理論や統計学的議論が基礎になっている。とくに、オプション契約や金利スワップ契約の取引といった派生証券(デリヴァティブ)の取引の活発化という現実を受けて、伝統的な経済学や経営学で用いられてきた数理的議論では収まらない確率論(確率解析)的展開がひろく行われるようになってきた。本論文のタイトルにある「オプションの価格付け」の問題は、その中でも中心的な問題のひとつであり、Black and Scholesによってその端緒が開かれたの1973年のことである。もっとも、ファイナンス研究における確率過程論との結びつきは、株価の変動をブラウン運動を用いて説明するという事が提案すでに1900年にL. Bachelierの仕事までさかのぼることができる。そのことをふまえ、本論文はデリヴァティブの価格付けの問題に対して、NO FREE LUNCH(無裁定条件)に基づく公式を、まず基本的な離散モデルに対して導出し、それを用いて徐々に本格的なモデルに対する公式の導出の過程を詳細した。その際、連続モデルを離散モデルのある種のスケール極限をとることにより行なっている。一方、始めから株価を連続な確率過程と見ると、価格付けの公式を導くためにはマルティンゲールに基づく確率解析の理論を必要とする。本論文でも、必要な定義や定理をすべて証明つきで述べている。最後に導いた公式をさまざまな派生オプションに適用した。
浅野考平研究室 貴田智子
立体認識のRBC(recognition-by-components)モデルを利用して、不可能物体の生成方法を提案し、実際に生成することで検証した。 RBCモデルとは、私たちが身の回りにある物体を見たとき、ジオン(geon,geometrical ion) とよばれる、角柱や円錐などの単純な立体(構成要素)の組み合わせにより、物体の立体としての形状を認識するというものである。 不可能物体(impossible object、不可能図形)とは、Penrose tribarに代表されるような、一見、立体の形状を認識することができるが、よく考えてみると、認識された形状を実現することが不可能であるような図形をいう。 不可能物体の生成方法は、今までに数多く示されている。しかし、従来の生成方法と立体感が形成される仕組みとの関係については明示されていない。本論文では、関係を明らかにして不可能物体の生成を行った。 まず、従来の生成方法の前提となっているであろう、立体感形成の仕組みを理解し、この仕組みに基づいて不可能物体を生成した。生成の結果、不可能物体として不適切な図形が多数生成された。したがって、従来の方法は不可能物体の生成方法として不十分だと考えた。 次に、RBCモデルを利用した立体感の形成の仕組みに基づいて、不可能物体を生成した。生成された図形は、実現可能な図形と不可能物体だけであった。ゆえに、従来の立体感形成の仕組みに基づく不可能物体の生成方法よりも優れている。
北原研究室 藤井 康裕
修士論文では補間作用素のノルム評価について論じているが,その取り組んだ問題は次の通りである.まず,ノルム空間を定義した.それは,(C[a, b], ||・||∞) と(C[a, b], ||・||I) の2つのノルム空間である.この2つのノルム空間に関して2つの補間作用素L1 : (C[a, b], ||・||∞) → (C[a, b], ||・||∞)とL2 : (C[a, b], || ・ ||∞) → (C[a, b], || ・ ||I) を考えた.この補間作用素を評価することにより関数系の近似特性を知ることができるのである.なお,修士論文ではラグランジュ補間とスプライン補間について述べている.特に,スプライン補間を重点的に考えている.また,ラグランジュ補間における補間作用素L1 とL2 の評価についてはよく知られている.さらに,スプライン補間における補間作用素L1 についての評価はすでに幾つかの結果が得られている.一方,スプライン補間における補間作用素L2 についての評価は今まで知られていなかった.よって,修士論文はスプライン補間における補間作用素L2 についての評価を得ることを目的として作成された.
浅野・北橋研究室 坂口 公一
バーチャルモールや仮想博物館などのVirtual Reality(VR)では、様々な環境変化に対応する映像の生成が求められる。
CGによる映像生成では、物体の形状や反射特性のモデルを作るため、複雑な形状の被写体では手間が掛かる。そこで、モデルを作らず対象物体の系列画像から自由な視点映像を生成するImage Based Rendering (IBR)が提案された。当初、IBRには撮影時の照明条件を変更できない欠陥があった。この問題を解決する方法として、線形独立な3方向の各光源から撮影した映像から光線方向の変化に対応する映像の生成方法が提案された。
しかし、改良されたIBRも分光分布特性の変化には対応していない。通常、光源色のように分光分布特性を変更させるときには、マルチバンドカメラなどを利用して各分光分布特性を推定し、その情報から光源色を変更した映像を生成する。
本研究では、カメラ感度のRGBの3特性に着眼し、その成分画像の合成から光源色を変更した映像を再現した。提案方法の特徴は、いくつかの条件は与えるが、物体の分光分布特性を推定することなく一枚の画像から光源色を変更した映像を再現できることである。 今回提案する光源色の変更が可能な映像生成方法と、これまでの視点・光線方向の変更が可能な映像の生成方法の併合により、任意視点・光線方向・光源色の変化に対応した映像生成が可能となった。
瀬川研究室 山ア 向太
タンパク質の折りたたみ過程を研究するために、リゾチームのS-S結合を欠損させた一連の変異体の構造解析が行われてきた。著者は2本のS-S結合を残す3種の変異体、2SS(1+2)、2SS(3+4)、2SS(1+3)が天然立体構造を保持しうる臨界状態にあることに注目した。2SS(1+2)ではリゾチーム分子の ドメインに天然類似の立体構造が保持されているのに対し、2SS(3+4)と2SS(1+3)では分子全体にわたって秩序構造が失われている。そこで著者は後者の2SS変異体に30%グリセロールを添加することによって部分秩序構造形成を誘導した。その結果、2SS(3+4)変異体では部分的な2次構造形成が行われるものの立体秩序構造は回復しないこと、一方2SS(1+3)変異体では2次構造形成のみならず、弱いながら立体構造の回復を示唆する実験的証拠をCDスペクトルのデータから得た。このような部分秩序構造の回復がアミノ酸残基上のどの領域で行われているかを調べるために、重水素交換反応のプロテクション・ファクターという量をNMR分光法を用いて残基特異的に測定した。その結果、3種の2SS変異体で秩序構造が辛うじて保持されている領域が、変異体の種類によって程度の差はあるものの、共通して秩序構造を保つ部分があることを突き止め、その領域がタンパク質折りたたみ反応の初期過程における核形成にかかわっている可能性があることを指摘した。その場所はリゾチームの両ドメインの接触部位で著者等はその領域をリゾチームのPivotと名づけた。
瀬川研究室 福塚 啓二郎
分子動力学法によってタンパク質の立体構造の揺らぎを計算する研究はすでにこれまでいくつも行われている。しかし、信頼しうる実験データと計算結果との比較がいまだ不十分な現状では、計算結果から得られる構造変化の信頼度は決して高くない。著者の研究の目的は、S-S結合を欠損させるという変異が、タンパク質の立体構造の揺らぎにどのような変化をもたらすかという問題を分子動力学計算によって予測し、NMRによって残基特異的に調べられた構造変化の実験データと比較して、計算結果の信頼性を評価しようというものである。著者は300Kと600Kで2種類のリゾチーム変異体に対して5nsの分子動力学計算を行った。結果から言うと、600Kという非現実的な高温度における計算ではあるが、 3と 4という2種類のS-S結合欠損リゾチーム変異体の構造変化の特徴を再現する計算結果をえた。タンパク質を半径3.5nmの水球中においてAMBERというプログラムを用いて分子動力学計算を行った。結果の解析法において独自の工夫をし、主成分分析の結果のアニメーション表示などではコンピュータ・グラフィックスの種々の手法を活用した。 4変異体においては、ループ領域の構造が大きく揺らぐが、βシート構造の部分は安定に水素結合網を維持していた。それに対して、 3変異体においては、βシートのうち特に 1と 2ストランドの部分が外側に大きくほどけ出ることを見出した。重水素交換反応実験のNMRによる測定結果と定性的には首尾一貫する結果である。今後は300Kと600Kのシミュレーションから分かった構造の揺らぎのモードの連続性について検討する必要がある。
平岡 佑介
ASIP (Application Specific Instruction set Processor) は, 特定の応用を指向してアーキテクチャを最適化することにより, 高性能化と低消費電力化の両立を実現できるが, プロセッサの設計に加え, コンパイラ, シミュレータ等のソフトウェア開発ツールの開発が必要である. 大阪大学で開発されている特定用途向けプロセッサ設計システム ASIP Meister は, 抽象度の高いプロセッサ仕様記述から, プロセッサの HDL (Hardware Description Language) とソフトウェア開発ツールの自動生成を行うものであり, ハードウェアとソフトウェアの開発の一貫性を保ちながら, 短期間で ASIP の設計を可能とする.
命令依存距離 (コンパイラの命令スケジューリングにおいて, データ依存により 2 命令間の実行に隔てなければならない最小サイクル数) は, 設計されたプロセッサにコンパイラをリターゲッティングする際に必要となるプロセッサの情報の一つである. 本研究では, ASIP Meister のプロセッサ仕様記述から, 命令依存距離の抽出法を提案するが, この際フォワーディングまで考慮する. フォワーディングは, プロセッサ高速化技術の一つであり, 各命令におけるサイクル精度の動作記述においてフォワーディングユニットを用いて記述される. 本研究では, 命令とフォワーディングユニットの接続関係に着目して命令依存距離の抽出法を定式化するが, それに先立ち設計誤りのあるフォワーディングや従来のスケジューリング手法では扱えないフォワーディングを排除するために, それぞれ正しいフォワーディング及び完全 (complete) なフォワーディングを定義する. さらに, 命令依存距離抽出に必要となる情報は命令数に伴い膨大な情報量となることから read, write 単位で情報のクラス化を行う手法を定義し, データ量の削減を図る.
岸本 充司
リターゲッタブル・コンパイラは,ターゲットプロセッサが可変なコンパイラであり,カスタムプロセッサやコンフィギュラブル・プロセッサなど,アーキテクチャが応用に特化して開発されるプロセッサに対し,その都度コンパイラを開発する必要が無いという利点を持つ.これらのプロセッサは性能と低消費電力化を両立させるため,VLIW(Very Long Instruction Word)のように複雑なアーキテクチャを採用することが多いがこのようなアーキテクチャに対するコード生成の手法が重要な研究課題になっている.
コード生成は一般に,命令選択(フロントエンドで生成された機械独立な中間コードの命令をプロセッサが実行可能な命令に変換したコードを生成する),バインディング(命令を実行するためのレジスタや演算器の資源の割り当てを行う),スケジューリング(命令の依存関係や資源の制約を考慮して命令の実行ステップの割り当てを行う)の 3 フェーズで行われるが,これらの処理のために,プロセッサで定義されている命令の命令パターンや資源情報を記述したオペレーションテーブルが必要となる.オペレーションテーブルは人手で記述されることが多いが,アーキテクチャが複雑になるほどその設計も困難になる.特に,命令パターンの作成には膨大な作業を要し,コスト増大の要因となる.
本研究では,カスタムプロセッサ設計システム ASIP Meister 用リターゲッタブル・コンパイラのためのオペレーションテーブルの設計行った.特に,本論文ではプロセッサ実行可能な命令を表す命令パターンについては,プロセッサの動作仕様記述から自動生成する手法を提案する.プロセッサで定義されている命令とコンパイラに必要な命令は異なることが多く,単に,プロセッサで実行可能な命令パターンの生成を行っただけでは,コンパイラに必要な全ての命令パターンを生成することはできない.この問題を解決するため,プロセッサ設計上の 1 命令からコンパイラに必要な複数の命令パターンを生成する手法を提案する.本手法に基づき命令パターン生成系を実装し,実験を行った結果 DLX プロセッサの 52 命令に対し 0.012 秒でコンパイラに必要な 107 種類の命令パターンを生成することができた.
稲畑 康博
本研究はボードゲームBAOを形式的に記述しその動作を解析することで,この ゲームの特徴を明らかにしたものである.
BAOはMancalaと呼ばれるグループの一種である.Mancalaの歴史は古く,今も 世界各地で広く親しまれている.そのルールは単純で2人のプレイヤーが穴に 入った石を交互に動かして取り合い,石の総数を競うゲームである.石の動か す規則は単純だが,BAOの場合は1手で局面が大きく変化するという特徴を持つ. そのため人間の手で次の着手を先読みすることは難しい.その一方でBAOのも つ探索空間は比較的狭く,1手の動きは確定的であるため,コンピュータ上で 実装しやすい.しかしBAOに関する研究は少なく,戦略の有効性や動きの解析 はほとんど行われていない.
対戦実験の結果から,BAOでは他のボードゲームでは見られない興味深い特徴 を持つことが分かった.BAOは石の動きの規則から,千日手以外にゲームが終 了しない状態が存在する.それは特定の局面およびそのときに選択される穴に よって,1手の間に盤面の変化は停止せずしかも周期的な変化をする場合であ る.
本研究ではBAOの持つこの特徴を調べるため,プロセス代数とモデルチェッカ という形式検証で使われているツールを使用し,動作の記述や検証を行う.形 式検証の手法を使うことで検証を機械的にできかつその正しさを保証すること ができる.まずBAOの動きと性質をプロセス代数CCSで記述し,1手が終了せず 盤面が周期的に変化する動きを調べる.次にモデルチェッカSPINを用いて初期 局面から到達可能な終了しない手筋を自動検出し,検出した周期性を持つ局面 に関して解析する.1手が終了しない局面はその周期で大きく2種類に分類され る.それぞれについて解析を行ない,局面が周期性を持つために必要な条件を 求める.また1手の動きを逆向きに解析することで1手が停止するための条件を 求める.そして解析した1手が終了しない条件と1手の停止条件は同時に満たさ れないことを示す.
さらにBAOを実装し対戦を行うことで,先読みによる評価関数を強化する.そ の結果,獲得する石だけでなく局面の静的評価が評価値として重要であること が分かった.
早藤研究室 中尾 亮
現在のエレクトロニクスにおける課題は、大容量で高速な不揮発性RAM(Random access memory)の開発である。それを実現するために、強誘電体の分極反転特性を利用したメモリが開発されており、大容量化及び高速化のためにデバイスの微細化が行われている。しかし、過去の研究によって強誘電体薄膜において、強誘電体材料のさらなる薄膜化を進めていくと強誘電性が消滅することが知られている。また、強誘電性消滅の原因や臨界の膜厚を知るために実験や第一原理計算が盛んに行われているが、それらは未だ明らかとなっていない。本研究の目的は、前述の強誘電性消滅現象の機構を明らかにし、強誘電性を維持する臨界の膜厚を予言することである。
BaTiO3薄膜の強誘電性に対する臨界の膜厚は、第一原理DV-Xa分子軌道法とポピュレーション解析によって研究を行った。モデルクラスタは、BaTiO3の結晶構造に基づいて造られるBa8Ti7O6クラスタとBa8Ti7O6クラスタを囲んでいる三次元の点電荷配列からなる。モデルクラスタの大きさは、三次元の点電荷配列の大きさによって定義した。
Ti 3d軌道とO 2p軌道の間の共有結合性の膜厚依存関係が強誘電性消滅の原因であることを突き止め、BaTiO3薄膜の底面積が20×20 nmであるとき、臨界の膜厚が12nmであることを予言した。
早藤研究室 富田 匠
透明導電性酸化物である酸化インジウムIn2O3は、フラットパネルディスプレイ等の透明電極材料として現在最も広く用いられている。このIn2O3は、広いバンドギャップを持つため、理想的な完全結晶は絶縁体的に振る舞う。しかし、実際には化学量論組成からわずかに還元されることにより、ノンドープの状態でもn型伝導を示すことが知られている。その伝導キャリアは、酸素空孔(VO)によって生成されるとこれまで言われてきた。ところが、我々が行った、第一原理DV-Xα分子軌道計算の結果では、VOによる欠陥準位は伝導帯下端より非常に深い位置に形成され、キャリア生成の解釈が困難であった。そこで、本研究ではノンドープIn2O3中においてキャリア生成の起源となる固有点欠陥を探索し、 n型伝導が生じるメカニズムの理論的解明を試みた。
In2O3中において考えられるほぼすべての固有点欠陥に対して、各々の欠陥を考慮したクラスタモデルを設計し、DV-Xα分子軌道法による電子状態計算を行った。その結果、格子間インジウム(Ini)は、VOに比べてより浅い位置に欠陥準位を形成した。さらに、IniはVOと共存することにより、そのドナー準位はさらに浅くなった。これを詳細に解析した結果、ノンドープIn2O3中においてキャリア生成の起源となる固有点欠陥はIniであり、VOが共存することによってキャリア生成が促進されることが明らかとなった。
早藤研究室 高尾将和
シリコン半導体を基礎とする半導体エレクトロニクスは、将来微細加工技術の限界が訪れると考えられる。その限界を打破するために、分子エレクトロニクスが期待されている。そこで我々は、分子エレクトロニクスの新しいデバイスを作るために、分子デバイスの材料としてポリシランに注目した。ポリシランの伝導性は、ポリシランにドーパントをドープすることにより、鎖上に沿って非局在化しているσ電子により形成される価電子帯を、ドーパントにより生成するホールが移動することによって起きることがわかっている。そこで本研究の目的は、ポリシランに伝導性をもたせるため、ポリシランに結合しドーパント準位を与えるドーパントを探索することである。ドーパント探索には、第一原理分子軌道法であるDV-Xα法を用いて電子状態計算を行い、ドーパント準位の形成とドーパントの結合安定性を調べた。ドーパントには、BH3,AlH3,GaH3,PH3,AsH3,SbH3,O,S,Se,F,Cl3,Br,I,BH3,BF3,BCl33,BBr3,BI3を用いた。ポリシランに伝導性をもたせるため、ポリシランに結合しドーパント準位を与えるドーパントを探索した結果、BH3,AlH3,GaH3,O,BF3,BCl3,BBr3,BI3でダブルアクセプター準位が得られた。しかし、BH3,AlH3,GaH3のみがポリシランに対して安定して結合することがわかった。これらの結果より、ポリシランに結合しダブルアクセプター準位を与えるドーパントとしてBH3、AlH3、GaH3を発見した。今後の課題は、ポリシランに対して安定して結合しドナー準位を与えるドーパントを探索することである。
早藤研究室 佐藤 大輔
シリコン(Si)半導体素子の高速化及び微細化のためには、ソース・ドレイン領域の不純物拡散層を浅い接合にする必要がある。P型領域の形成に用いられるボロン(B)は質量が小さいため、イオン注入によるイオンの深い分布と大きな分布幅に起因して、浅い接合形成には課題が多い。このため、Bに代えて質量が大きなインジウム(In)の利用が考えられる。
InはSi中においてイオン化エネルギーが0.156eVであり、Bの0.044eVと比較して大きいため、Si半導体素子のドーパントとして不適切と考えられてきた。この問題点を解決する方法として、我々はcodoping 法とゲルマニウム(Ge)をSiに混ぜるシリコン・ゲルマニウム(Si1-xGex)混晶を用いる2方法を考案した。後者の方法はGe中においてInのイオン化エネルギーが0.011eVと極めて小さいことを利用する。
本研究では後者の方法を採用し、第一原理計算であるDV-Xα分子軌道法を用いて電子状態計算を行い、Siの優れた物理的特性を生かしつつInの活性化エネルギーを小さくするSi1-xGex混晶の組成や構造を見出すことを目的とした。その結果、Si0.4Ge0.6混晶においてInのイオン化エネルギーを、Si結晶中のBのイオン化エネルギー程度に小さくできることがわかった。
早藤研究室 柏木 伸介
集積回路(IC)などに利用されているSi半導体素子は、高性能化を目指して数多くの研究が行われてきた。そして、更なる高性能化の為には極微細なソース・ドレイン領域の不純物拡散層が必要となる。ここに必須となる技術が【拡散】である。この【拡散】は大変制御が難しく、予測不能な現象を引き起こすことが知られており、これが極微細な不純物拡散層を形成する上で大きな障害となっている。この拡散問題の解決の為には、まず拡散の制御方法を確立する上で必要な「原子の拡散機構の詳細な理解」が求められる。これまで、この情報を得る為に実験に依るアプローチが行われてきたが、実験には多くの困難が伴う為、明確な描像は得られていない。そこで本研究では、『第一原理計算を用いて、原子の結合状態からアプローチすることによって、原子移動の明確な描像を得ること』を目的とした。そして、その対象物質としては、拡散機構がよく理解されていないInを取り上げた。近年、Bに替わる新たなp型不純物として、このInが注目されていることを考えても、この原子を扱っていくことは大変有用なことであると思う。また、この研究のファースト・ステップとして、《理想条件下において静的な移動を行う系》を仮定して計算を行った。そして、この結果として、上述の条件においてsubstitutional siteにあるInがtetrahedral siteを通って移動すること、そしてこの移動を遅くする為には、Inがsubstitutional siteにおいて、より強い結合を形成するような拡散環境を作れば良いことがわかった。
佐野研究室 瀬尾 恭子
半導体デバイスの更なる高集積化・高機能化に伴い、生物のもつ自己組織化機能の応用が注目されているが、この機能の解明や制御は十分でないのが現状である。
我々は、酸化ケイ素からなる珪藻殻に施されるナノ領域の高度な自己組織化機能に着目した。珪藻殻形成因子であるsilaffinタンパク質は、in vitroで球状クラスタ(bio-silica)を形成するのに対して、in vivoにおいてその反応環境における何らかの物理的・化学的制限要因によって自己組織化された秩序構造を形成すると考えられている。しかし、その詳細は分かっていない。本研究では、新たなボトムアップ型微細化技術のための知見を得ることを目的に、silaffin と物理的・化学的制限要因の関係を調べた。
そこで我々は、生物学的・物理学的アプローチを試みた。生物学的アプローチとして、分子生物学的手法を用いてアミノ酸配列を任意に改変できる組換 silaffin の発現系を初めて構築した(化学的制限)。また、物理学的アプローチとして、タンパク質支持体、極薄液相環境の単純な物理的制限を設けbio-silica形成を試みた(物理的制限)。
その結果、自由度の高い溶液中では、等方的な球状bio-silicaが形成されるが、自由度の低い物理的制限下では、silaffinや反応溶液の拡散が制限されるために、bio-silicaの形成に変化を及ぼすことが分かった。
金子研究室 上原 準市
本研究は、半導体固体表面での吸着原子の拡散場を原子レベルで制御することにより、ナノ領域の三次元構造からなる高密度配列を"その場"で自己形成させることを特徴とし、従来の半導体微細技術とは異なる物理機構を背景にもつ。具体的には、化合物半導体GaAsを基板に用いて表面に存在する自然酸化膜層(厚み3nm)を電子線直接描画により局所的に改質する技術を応用した。半導体基板がもつ自然酸化膜を無機レジストとして利用し、GaAs半導体表面を電子ビーム(EB)による直接パターン描画を行う事で生成される改質酸化膜(Ga2O3)を選択成長のマスクとして利用し、表面原子の拡散制御場を構築する。その後、分子線エピタキシャル法を用いて表面全体に成長のみを施すことにより、表面原子の選択的拡散を酸化膜改質領域と基板表面との間で促し、下地基板の結晶性を保持したサブミクロン三次元構造を構築する。これは広い意味では選択成長と呼ばれる分野であるが、従来手法が吸着原子の選択的熱脱離や選択的化学反応を背景にするのに対して、本手法では表面原子の拡散機構のみを支配要因にもつ。従来、選択成長を行うための必須条件として成長分子・原子の"大きな"拡散長が指摘されてきたが、本研究により拡散長より小さな周期をもつ配列構造には"小さな"拡散長が必要であることを実証した。本手法は新しい量子デバイスを実証する上で極めて有効な新しい手段と考えられる。
佐野研究室 今中 秀幸
量子サイズをもつ半導体微細構造が新規の光・電子デバイスを創出すると期待されている。高性能量子デバイスの実現には量子構造の均一化、配列化、そして高密度化が求められている。
現在ではV−X族化合物系の半導体微細構造作製のため、自己組織化を利用した成長プロセスが注目されており、その一つに"気体−液体−固体"の3つの環境相を用いた液滴エピタキシャル成長法がある。この手法は、MBE成長を用いて基板表面に"10nm"程度に配列制御されたV族原子の液滴領域に、蒸気圧の高いX族原子の照射を行う結晶作製法である。この手法の問題点は、量子構造の配列が液滴の分布に依存するため、高密度な配列制御が困難なことが挙げられる。そのため、現在では高輝度半導体レーザーなどへの実用化が難行している。
そこで、我々は超高密度に配列した量子構造の作製を目的として、自己組織化プロセス法の開発を行った。本研究ではMBE法を用いて、GaAs(001)基板上に"数μm"領域にサイズ制御したGa液滴を形成し、その後As分子線を直接照射した。すると液滴という制限領域内に直径"10nm"程度のGaAsウィスカーが高密度に自己組織化成長する現象を初めて見出した。本手法により従来の量子ドット成長法と比較して、十倍以上の高密度配列化に成功した。
岡村研究室 大嶋康孝
量子論と古典論との大きな違いは,重ね合わせ状態(量子コヒーレンス)の有無である.そのため,古典論で良く近似されるマクロ系に量子力学を適用した際,「Schrödinger の猫」に代表される概念的問題が生じる.
量子系の古典化現象を論じる際に問題となるのは,(i) 古典的状態の定義 (ii) デコヒーレンスの起源,である.
後者を解決する有力な考えに,着目系と環境系の全系に量子力学を適用し,着目系を部分系として扱うことによって,着目系にデコヒーレンスを引き起こす考え方がある.
前者については,これまで「古典的状態の定義」として二つのものが提唱されている.一つは,Zurekによって提唱されたpredictability sieveの考え方に基づく「エントロピー生成最小状態(Zurek基底と呼ぶ)」である.もう一つは,Zeh によって提唱された,完全な量子コヒーレンスの消失の考えに基づく「" 安定な"密度行列の対角化基底(Schmidt基底)」である.
本論の目的は,「環境効果によるデコヒーレンスメカニズム」の枠内で二つの「古典的状態の定義」の関係を明らかにすることにある.具体的には,断熱的に時間発展する環境系とそれに結合する2準位着目系からなる全系に量子力学を適用した.
その結果,弱,強結合極限において,両者は結合定数について2次のオーダーで完全に一致し,また,中間結合状態おいては,Schmidt基底がZurek基底を包含する結果を得た.
高橋功研究室 上石直哉
ガラス転移の物理的基礎に関する問題は積年の難問として残されている。今日、協同運動の概念がガラス転移を記述するための基礎になるであろうと期待されている。協同運動の概念は、過冷却液体において、いくつかの隣接した構成粒子が協同的に再配置するときのみ構造緩和が起こるというものである。この協同運動領域(CRR)は温度の下降とともに大きくなる。CRRの存在を仮定すると、有限のサイズ効果、すなわちCRRのサイズ程度に系を小さくするとガラス転移温度(Tg)やダイナミクスに変化の現れることが期待できる。
基板上に作成したPolystyrene薄膜(膜厚:数十〜数千Å)は空間的に閉じ込められたガラス形成液体の例として盛んに研究されている。薄膜のTgを決定する手段の一つとして、標準的なheatingやcooling rate(〜10-1-1K/min)において膜厚の"連続的"な温度変化を測定し、線膨張率に"飛び"の現れる温度を膜の平均のTgとする方法がある。我々は標準的なheating rateより一桁以上小さいheating rate(〜10-2K/min)で、X線反射率法による膜厚の熱膨張の精密測定を行い、従来とは異なる非常に興味深い結果を得た。いずれの膜厚の異なる試料にも大きく分けて三つの線膨張率の異なる温度領域があり、その境界は表面のガラス転移温度Tg,s〜355Kと、バルクのガラス転移温度Tg,b=374Kであった。また、膜厚:965Åの場合、膜厚は"連続的"に変化するが、390Åの場合はTg,bのみで、145Åの場合はTg,sとTg,bの両方で、いずれも数Åの"飛び"がみられた。
篠原研究室 田中 章雅
田中 章雅君の修士論文は, 絡み目の代数的不変量の一つである符号数について研究を行ったものです. 絡み目の符号数は, 向きの付いた絡み目に Seifert 行列や Murasugi 行列を対応させて定義されますが, これらの行列は向きの付いた絡み目から導出するため, その取り扱いが難しいのが欠点です. 絡み目の向きを考えないで定義できる Goeritz 行列の符号数に, 絡み目の向きを考慮した交点数を補正することによって, 絡み目の符号数を得ることができることを示したのが Gordon-Litherland の定理です. しかし, この定理は多様体の符号数に関する定理を用いて導出され, その証明は大がかりで, 難しく, 分かりにくいものです. 田中君の論文は, Gordon-Litherland の定理に, 組み合わせ論的な手法を用いた単純で分かりやすい別証を与えることに成功しています. 田中君の証明の一部には, 文章化することが難しい箇所があり, 今後の工夫が必要ですが, Gordon-Litherland の定理を活用していく上で, 有益であると考えられます. その応用例の一つとして, Two Bridge Link の符号数の計算を試みています. Two Bridge Link は本来, Schubert の標準形で表される絡み目で, 田中君が計算に用いているのは rational tangle 形の表示です. これら二つの表示の間の具体的な変換関係はまだ解明されていません. 今後の課題です. 田中君の成果は, 絡み目の符号数に関する研究を発展させていく上で、大きく役立つものと期待できます.
篠原研究室 朝倉 正一郎
朝倉 正一郎君の修士論文は, 絡み目の代数的不変量の一つである行列式と符号数について研究を行ったものです. 特に, 絡み目の symmetric union と skew-symmetric union に注目して, その行列式と符号数について調べています. 絡み目の symmetric union は, 絡み目をうまく取れば自明な Alexander 多項式をもった自明でない結び目を得ることが出来るおもしろい, また貴重な操作です. しかし, symmetric union と skew-symmetric union の一般的な性質は殆ど解明されていません. その手始めとして, 朝倉君は修士論文で, symmetric union と skew-symmetric union の行列式と符号数を調べています. そのために, 先ず, symmetric union と skew-symmetric union の Goeritz 行列を, もとの絡み目の Goeritz 行列を用いて表しています. 行列式の計算から, symmetric union と skew-symmetric union の行列式が, もとになっている絡み目の行列式の2乗であることを示しました. この結果と, Gordon-Litherland の定理を用いて, symmetric union と skew-symmetric union の符号数が 0 であるという結果を導いています. この結果は, 行列式の値が 0 でないという条件の下に証明されていますが, この条件をどの程度緩和できるのかは, 今後の研究課題です. いずれの結果も新しい成果で, symmetric union と skew-symmetric union についてのこれからの研究に役立つものです.
加藤研究室 木下祥尚
リン脂質二分子層膜は一般に疎水性効果のために水溶液中では袋状に閉じたベシクル構造をとるが、最近酸性リン脂質DMPGは低イオン強度下で平坦なシート状二分子層膜が積層した構造体を形成することが報告された。このようなシート状構造では、層間水の出入りに抵抗がなく、曲げ弾性エネルギーもゼロであると考えられる。これらの形態的特長は層間水が一部脱水し二次元的に結晶化しているサブゲル相の形成に有利に働くと予測し実験を行った。2mM NaCl3存在下でDMPG二分子層膜のサブゲル相形成の緩和時間をDSC測定により見積もったところ、顕著な温度依存性がみられ、0℃以上では日のオーダーであったものが、0℃以下で急激に短くなり、−7℃以下で3分程度となった。0℃以下での緩和時間は、以前に他のリン脂質系で報告されている数日〜数ヶ月の緩和時間に比べて極端に短いこと、またキネティクスの実験で中間状態は観測されず形成過程はベシクルの系よりも単純化されていることなど、推測した形態の効果を支持する結果が得られた。さらに形態の効果を確認するためNaCl3濃度を200mMに上げてDMPG膜の形態をシート状構造からベシクル構造に変えてサブゲル相形成の緩和時間を測定したところ、形態変化にともなって緩和時間が100倍以上長くなることがわかった。これらの結果は、サブゲル相形成過程が二分子層膜の形態に強く依存していることを示唆している。
北原研究室 徳島 孝裕
被近似関数と定義域の有限個の点(標本点という)に対して,各標本点の関数値と同じ値をとる多項式(補間多項式という)で近似するのをラグランジュ補間という.ラグランジュ補間多項式についての近似特性はよく知られている.よって各標本点の関数地および指定された階数(多重度という)までの導関数と同じ値をとる多項式で近似するエルミート補間多項式の近似特性を得ることをテーマとした.
標本点を等間隔に取ったときのエルミート補間多項式の近似を考察した.ここで標本点の数を増やしたとき誤差が0に収束するための条件を求めることが主題である.結果として3つの多重度の与え方によって被近似関数への収束の仕方が異なることが証明できた.
(1)多重度を各標本点ですべてnとしたとき
このときはラグランジュ補間多項式のときと同じ結果となった.これにより同じ多重度を与えても近似特性は変化しないことがわかった.
(2)多重度を原点での多重度が1で両端点に向かって大きくなっていくとき
このときの近似特性はラグランジュ補間多項式より被近似関数に収束する可能性大きいことが示せた.
(3)多重度を原点で一番大きくとり両端点が1となるようなとき
近似特性はラグランジュ補間多項式より被近似関数に収束する可能性が小さいことが示せた.
これらの結果よりエルミート補間多項式は標本点の与え方でだけでなく多重度の与え方によっても近似特性が変化することがわかった.
北原研究室 藤井 康裕
修士論文では補間作用素のノルム評価について論じているが,その取り組んだ問題は次の通り である.まず,ノルム空間を定義した.それは,(C[a, b], ||・||∞) と(C[a, b], ||・||I) の2つのノルム空 間である.この2つのノルム空間に関して2つの補間作用素L1 : (C[a, b], ||・||∞) → (C[a, b], ||・||∞) とL2 : (C[a, b], || ・ ||∞) → (C[a, b], || ・ ||I) を考えた.この補間作用素を評価することにより関 数系の近似特性を知ることができるのである.なお,修士論文ではラグランジュ補間とスプラ イン補間について述べている.特に,スプライン補間を重点的に考えている.また,ラグラン ジュ補間における補間作用素L1 とL2 の評価についてはよく知られている.さらに,スプラ イン補間における補間作用素L1 についての評価はすでに幾つかの結果が得られている.一方, スプライン補間における補間作用素L2 についての評価は今まで知られていなかった.よって, 修士論文はスプライン補間における補間作用素L2 についての評価を得ることを目的として作 成された.
山根研 八田 正史
汎関数とは関数や曲線が独立変数になっているものである. 独立変数 y の増分 h に対応する汎関数の増分をテイラー展開を使って 計算すると第1変分, 第2変分を得られる.
まず第1変分がゼロであることが極値を持つための必要条件の一つとなる. この条件はオイラー方程式という. 次に第2変分が非負であることも極値を持つための必要条件の一つとなる. 第2変分が非負であるためには h の導関数の2乗の 係数Pが非負であることが必要である. さらにこの条件に加えて, 区間 [a,b] が a の共役点を含まないことも必要となる.
上の必要条件に手を加えた次の3条件を同時に満たすことが弱極値の十分条件となる.
強極値を考えるとき弱極値よりもより複雑になる. そのために停留曲線の族を考えていくために場という概念を用いる. ここで弱極値の十分条件が成り立つと仮定し 強極値の条件になるように補強する. 仮定からこの停留曲線は場に埋め込み可能であることがわかる. すなわちこの停留曲線とそれと近い別の停留曲線を考えるとき ヒルベルトの不変積分を使うことができる. 汎関数の増分を計算すると被積分関数が ワイエルシュトラス関数Eとなる. Eが常に正を満たすならば増分も常に同符号である. 故にこれが強極値の十分条件となる.
阪上 潔
本論文は,金属の人工格子すなわち異なる2種類の金属を交互に積層した薄膜において見いだされている弾性的な異常の発現について研究を行ったものである.人工格子は,異なる2種類以上の原子を交互に積層しているという点で,たとえ組成が同じであっても合金とは異なる物性の発現が期待される.たとえば,今回テーマに選定したと同じ金属系の人工格子で,磁場によってその電気抵抗が変化する磁気抵抗効果がとりわけ大きくなる(GMR:Giant Magneto-Resistance )というのがその例で,現在ではパーソナルコンピュータのハードディスク装置のヘッドに応用されている.このように人工格子においては,積層構造に起因する特異な物性の発現が期待され,それが基礎的な面から応用的な面にわたって興味が持たれている理由でもある.
人工格子の弾性的な性質は,その系によっては発現の真偽についても議論もされている中,人工格子の質などがその特異な性質の発現に寄与するかどうかを整理するために,人工格子の中の超格子に着目し,成長方位を制御し異なる方位の人工格子をめざし実験に取り組んだ.この研究において,Cu/Ni系超格子の作成条件を見いだし,その作製を行い,弾性的な異常を調べたものである.
本学位申請論文は,5つの章から構成されている.
第1章は,イントロダクションであり,多層膜と超格子の違いを定義し,多層膜で主として行われてきた弾性的な性質における研究の経緯について述べられている.次に,本論文の対象であるCuとNiの系について説明をおこない,今回の研究の動機について述べられている.
第2章は,今回作製したCu/Ni系超格子の基板の選択,成長条件の決定などについて書かれている.特にこの系において,弾性的な性質の発現が議論になっているのは,作製の手段や人工格子の質に依存するところが大きいと予想され,そのためより良い品質あるいは品質を定量化できる試料を提供することがこの方面の研究に貢献できると考えた.この系は,Cu,Ni双方ともバルクにおいて面心立方構造を持つので,(111)の配向性をもって成長しやすい.そのために,この研究が行われるまでにこの系の研究で用いられた試料は,すべて(111)配向で,かつ面内の秩序のない試料であった.この性質に反して,(001)方向に成長させようとすると,基板や成長条件を吟味する必要がある.(001)方向に成長させるために,ガリウムヒ素(001)基板を用い,さらに表面を意図的に粗くすることで成長することが分かった.また,超格子の下層に基板との格子不整合の影響を低減するためにCuのバッファ層を形成するが,緩衝層の成長温度が室温かそれ以下であることが必要であるということも判明した.一方,(111)方向には,YSZ(ジルコニア)基板が適しており,Niを緩衝層とし,その成長温度は200℃が適していた.また,これらの緩衝層の結晶性や配向性については,X線回折法で調べられた.また,超格子層をその上に成長させるが,これも相互拡散の影響により室温かそれ以下で成長させる必要があることが分かった.これにより,著者はこの系において,初めて成長方向をを制御し,かつ面内の秩序を持った,いわゆる単結晶に近い品質の超格子を作製することに成功した.
第3章は,作製したCu/Ni超格子の構造を調べた.超格子は自然界に存在する結晶とは異なり,人工的に作製されたものであり,かつ周期長が構成要素の高々数十倍であるために,積層における乱れが存在しその影響はバルク以上に大きいと考えられる.したがって,構造の評価にあたっては,作製した超格子の周期長という成長のパラメータの再評価をすることはもちろん,成長方向ならびに面内の平均の格子定数,それぞれのコヒーレンス長,面内においてのCuとNi層の格子定数を回折法で評価した.また,成長方向の衛星反射を含むX線回折プロファイルに対して,ステップモデルによりフィッティングを行った.これにより,成長方向におけるCuとNi層の格子定数ならびに界面の拡散の程度を推定した.特に成長方向の各の格子定数は,一般の回折法では得ることの出来ない情報である.さらに,衛星反射の広がりから,周期長の乱れを評価した.このように,単に良質の試料と言うだけでなく,どう良いのかという数値的な評価を導入し,構造の内のどの様なパラメータがその物性の発現に寄与しているのかを明らかにしていくことが,特に人工的な構造を作製する上で重要であるという方針を示した.
第4章は,作製したCu/Ni超格子をブリリュアン散乱を用いて弾性的に評価を行った.実際の測定は,筆者のいくつかの論文の共著である東北大学の吉原氏によってなされた.ブリリュアン散乱は,金属などの不透明物質の表面弾性波の速度を測定することが出来る.(表面弾性波の速度では,ラマン散乱では周波数変化が小さいために測定できない.)測定を行った結果,(001)方向に成長した試料では,表面弾性波の変化は見られなかったが,(111)方向に成長した試料では,周期長3.6nm付近に極大を持つ異常が観測された.しかも,表面弾性波速度の変化では15%程度であるが,(001)方向の試料に異常が見られなかったことから,(111)方向の表面弾性波速度に寄与する弾性コンプライアンス(c11−c12)が異常を担っているとすると,その異常は60%程度にも達する.これは,多層膜で行われた同種の実験で異常が見られなかったことを考えると,単結晶ライクな超格子を用いた事によるメリットであったと考えられる.また,この研究においても一部利用したが,面内の配向性を利用すれば,さらに詳細な情報が得られることも期待できる.
第5章において,以上のまとめをおこなった.