確率論の究極の課題は、偶然性のなかにひそむ法則を見いだす事である. 例えばコイン投げを繰り返すと、表の出る回数の頻度は必ず( 確率1で)2分の1に近づいていく.これは大数の強法則(strong law of large number)と呼ばれる 最も基本的な法則である. では、例えば10000回コインを投げた時、表の出る回数の平均の回数5000回との誤差が±50回以内である確率はどの程度だろうか.一般に平均値からのずれを「揺らぎ」と呼ぶ. 試行回数を大きくした時の揺らぎに対して、それを回数のルートで割った数の確率分布が 平均0のガウス分布に近づく事が知られている.これは中心極限定理(central limit theorem) と呼ばれる法則である. 一方、大数の法則から、表の出る回数の頻度が3分の1以下である確率は 投げる回数を大きくしていくと0に近づくが、それはどの程度の早さで 0に近づくのだろうか.多くの微積分学の教科書にもある「スターリングの公式」 を用いると、指数関数のスピードで0に近づくことを示すことができる. これを大偏差原理(large deviation principle)という. 以上述べた大数の強法則、中心極限定理および大偏差原理は、すべて 試行回数を大きくしていった時、言い換えると偶然が積み重ねられた時に あらわれる法則の例である.これらの法則を総称して極限定理という. この用語を用いると冒頭の文章は次のように言うこともできる.確率論の課題は、 偶然性が積み重なるさまざまな状況でいかなる極限定理が成り立つかを 見いだす事にある. ここで、一度落ち着いて考えてみると、我々の身の回りで起きる さまざまな自然現象が 今述べた「偶然性が積み重なる状況」の結果して起きている事に 気がつく.たとえば、0度Cを境にそれ以下の温度で水が氷になる現象(相転移現象)も、ものすごい 数の水のひとつひとつの分子がコイン投げのように偶然に支配された振る舞いをした結果起きたものと見なす事 ができる.このような視点から物理現象を調べる分野が統計力学である. 分子というミクロレベルでの確率的な振る舞いの積み重ねの結果 0度Cを境に水と氷の2相が存在するというマクロレベルの現象が起こると見なすのである. このような視点から自然現象を説明することは、そのまま 極限定理を見いだすという確率論の 課題と結びつく. ミクロのレベル の一つ一つの分子の動きを確率変数とみなして モデル化し、マクロのレベルの現象を極限定理として 導く事になるからである.ただし、 一つ一つの分子はたがいにぶつかり合ったりして相互に 影響をおよぼしあう.したがって最初にのべたコイン投げとは 異なり確率変数列はもはや独立ではない.よって古典的な極限定理は そのままでは適用できない.ここに難しさとおもしろさがある. 分子が相互に影響しあうような系のモデル化を相互作用粒子系の モデルと呼んでいる.排他過程(Exclusion process)と呼ばれるモデルは その代表的な物である.このようなモデルに対して その平衡系を「ギブス測度」として調べたり、そのダイナミクス(時間発展) の「流体力学的極限」を考えるといった事が世界中の研究者によって 活発に行われている. ダイナミクスの研究では系を記述し解析する道具として 確率微分方程式が用いられる. 私の研究テーマの中心は、ここに述べたきたような統計力学の問題に 動機付けられた極限定理の研究である.特に、系が臨界点にある時、 つまりその点を境にして水と氷のように系の定性的性質が 変わる状況において、古典的な独立確率変数の場合とは異なる 形の極限定理が成立するといった予想に関心を持っている. 現状では、個々のモデルに対してこつこつと 数学的に定式化し証明するという作業が世界的に進められている. それらの蓄積を経て、いつか新しい極限定理の一般的な理論が 立ち現れるのではないかと思っている. |